人間は、なぜ病気になるのか
人間は、なぜ病気になるのか
私達の肉体の五体、各諸器官は、意識と与えられた任務を持っており、人間に協力することを、宇宙の意識(神)と約束をして、この世に出て来たことを知っています。
私達の意識(心)が悲しみや愚痴、心配したりが多くなると肉体に伝わり胃や心臓等の意識が病み、そして臓器が病むわけであり、強い怒りは血液を汚し、細胞に酸素が無いところは病気になります。生きて行く上での心のやりがいが無くなったり、自分の存在が必要とされていないのではないか等と考えるようになると脳は活力を失います。
食べ過ぎや肉体に悪影響となる食物を習慣になって続けると臓器の意識は、今の状態でいいと思うようになり維持しようとします。肉体の支配者である私達は、強い気持ちを持って悪い習慣を直し、臓器の意識に正しい心で指示し、支配しなくてはならないのであります。
自律神経は、私達が発した言葉が自分(自律神経)に言われたのか他人に向けて言ったのか理解できません。他人と自分の区別が無いのであります。悪口を言ったりマイナス(他人が考えないようなことまで、あれこれ心をはたらかせる、否定、苛められる、悲観、自分を責める、恐怖、衝撃等)になるような思いを持続すると自律神経はどうすればいいのか、わからなくなり悩んでしまい自律神経の悩みが体の調子を悪くして、さまざまな病名をつけられるのであります。自律神経は、平和主義なのでしょう。自分も他人も許し、自分を愛し、安心した生活をすることであります。
肉体は休むことによって活力を生み、過労で限界を超えると病気になり、食べ過ぎ, 太り過ぎ、限度を超える運動、運動不足、ストレス等に気をつけ、ほどほどにすることであります。
この世に生まれてくる時、不自由な体で心を磨いてみたいと自ら望む人や、肉体的な遺伝もありますが、薬や食物等に異常な反応を起こす体質は、正しい心の作用と環境等で変わるので、体質とは限らず法に適った正しい一念力のエネルギーは、心と体が良い方に向かい、その逆もあるわけであります。ようするに私達の想念行為は、肉体が病気になる元になり霊魂(意識、心)は病気には、ならない。死は生命体には与えられておらず老いることもないのであります。
霊的な作用で病気にもなります。
・ 本当は納得していないのに、自分をよく見せようとして我慢をしてしまう。
・ 人の話を聞かないで自分の考えをおしきる。
・ 自分は悪くないと他人を恨み、決して自分の所為だとは認めない。
・ 自分の考え以外は受けいれない。
・ 誰かと自分を比べて不満に思う。
・ 自分に都合が悪いと怒ったり言い訳をしたり等
このようなことが持続すると心がイライラして嫌な気分が蓄積され、悪(悪い方向に考える、嫉妬、憎しみ、中傷、愚痴等)が心に巣をつくり、地獄の世界で生きている同じ心の波動を持つ悪魔と自動的につながるのであります。そうなると肉体は、一人でありながら悪魔がくっついて二人となり人格が変わったようになるのは、悪魔が表面に出た時であります。多重人格は、肉体は一人でありながら三人や四人と悪魔がくっついて交替して表面に出てくるわけであります。自分は、このような事をした覚えがない等は、悪魔に自分の意識を占領されてしまうからであり、常に地獄の世界に通じているのではなく、心が平穏の時は天国の方へ心の波動は向いているのであります。悪魔は、人間の心の中を見る事ができます。
人間の意識(心)は、この世とあの世(天国、地獄)を同時に合わせ持って生活をしており、この世は善と悪のどちらもある世界で、心の中で思うことは誰にも妨げられることがなく、善悪を自分で決めることが出来ますが、言葉にしなければいいのではなく、心に思うことは現実であり、悪を思ったならば持続させないで善(自分以外の正しい考えを受け入れる、努力、向上、責任、勇気、博愛等)を考えるように心がけ、法に適う反省をして、悪いところに気が付いたなら、どうして、そのような事をしてしまったのかと
追求をして神に詫び、二度とやるまいと決意し悪い原因を直し、直さずにそのままにしておいては良く変わることは望めず、善悪の区別を持って生活をすることが重要であります。
自分を救えるのは自分だけで、人間の意識(心)の悪いところは他力では直せず、また、そのようには出来ていないのであります。この世での生き方の結果、あの世での長い生活が、どこへ案内されて行くのかと考えたとき、今を正しく生きなければならないのであります。
豚肉、鶏肉、米、野菜等は、生きる権利を持ちながら私達に自らの生命を差し出し、あの世に帰り、また、この世に生きる機会に恵まれるのでありますが、食事をするときは感謝し無駄にしないように心掛けたいものであります。
大自然は、ことごとく相互関係にあり、人間だけではなく、動物、植物等も心の成長をしていくようになっているのであります。動物、植物、鉱物を含めて万物が総て生命の塊りであり、エネルギー供給の基は、宇宙の意識(神)が与えているのであります。
人々は、この世で正しく暮らしていきたいと願っていても、今の世の中がむずかしくしている現実を見れば、人の上に立っている責任者の判断が如何に重大であるかと思うのであります。都合の悪い事は実行せず、闘争と破壊の不調和な環境にして、神に祈れば救われるという間違った方向に進んでいます。
正しいとか正しくないは、個人の都合や国等の都合によって決めてはならないのであり、正しい規準は、大自然の法則(大自然界は、常に他を生かす事を前提に成り立っている)の中に定められているのであります。自分の経験や知識は全体から見れば、わずかにすぎず、ともかく、考え方を白紙の状態にして、自己中心の立場を離れ(自分本位の気持ちを捨てて自分が主役になる考えではなく、他人の眼で自分を見る)物質的な考えではなく、心を尊重して全体を生かす「なかほど」の考え方で、近い関係にあるところでは家族、広くは地球全体を、自分が出来る範囲内で実践することでありますが、「なかほど」は意識の水準によって差が有ります。善も極端な考えになると善ではなくなるので「なかほど」の考え方が善ということになります。比べる考え方は「なかほど」から外れているのであります。
大自然は、天変地異等をとおして、なぜ、このような事が起こっているのかと気がつくように働き掛けているのですが、このまま誤りを続けていくと突き離され、他人事ではなくなるのであります。
1976年10月 空飛ぶ円盤を見る
隣家のお兄さんが外で「円盤だ!円盤だ!」と叫んでいる。その声を聞いた私は外へ出ました。隣家のお兄さんが興奮しながら人指し指を空に向け「上を見ろ」と私に言うので、空を見上げると、シルバー色の楕円形をした物体が停止して浮いている。「あれが風船に見えるか」と、隣家のお兄さんが私に言う。私は「いいえ」と一言。「円盤だ」と、隣家のお兄さんが一言。私は驚くこともなく、あたりまえのように円盤を見上げていました。青空の下で微動だにせず浮いている。その頃の私は世間に介入せず、子育てに没頭する毎日で家に居る二人の子供達が気がかりになり、隣家のお兄さんとは何も語らず、何事も無かったかのように玄関から中へはいりました。今、振り返ってみると感動する遭遇であったと思います。円盤に乗っている人達から地球を眺めれば、そこに国境は無いのでしょう。
遠い昔、天孫降臨民族は、他の天体より、この地球に心を磨き調和ある社会を築く為に飛来したのであります。