「八つの決まり」と「自然科学」の照合       【Ⅴ章】

Ⅴ章に入る前に

私の知っている人の体験を書きます。この人はこれまでの人生において、人間関係を通して絶えず心に生まれる「愚痴」に苦しみ、悩んできました。対抗意識を向けられた差別的態度を取られることの連続でした。そして子供の時にいじめられて悩んだ体験から、相手と揃えて対抗意識で返し「愚痴」が絶えませんでした。ハムラビ法典式では悪化しても解決しませんでした。時が経ち、人事異動で移動した先の環境はさらに酷く、そこでは非正規従業員に低賃金労働してもらう代わりに横柄な言動や態度を見逃していました。「ここはパートの言うことは何でも聞くからね」というセリフを目の前で言われることも。「正社員のくせに」といわれることは決まり文句であり、安く働いてやっているのだという愚痴が言動や態度に溢れ出ていました。他方では非正規でも言動や態度に出さずに耐え忍んでいる人々もいました。良くも悪くも反作用の結果は出ます。現行資本主義の不平等(いじめ)を受けてもその愚痴を言動や態度に出せば清算と自覚、そして生き方を行動で改めなくては救われません。この現状を理解した上で、不平等(いじめ)に耐え忍んできた人々を非正規から救われなければなりません。経団連の資本家・株主達(会長は大概が製造業のトップ)が迂回献金(政治献金)で政権操作して築き上げた現実です。日本経済を衰退させ現場を犠牲にしてきた現実です。上司に報告しても、彼らに上手く働いてもらわなければ自分の出世に響くので聞く耳をもちません。時間の癒しが全く追いつかず追い込まれ救いを求めましたがだめでした。非正規が低賃金で貧困になっていく異常であり、職場毎の差異はありますが正社員の給与が高い訳ではありません。しかし、給与が高い分だけ非正規従業員は正論だと言い張り、優先させる理不尽を完全に受け入れなければならず、以前のようなハムラビ法典も考えられません。我慢の苦しみが限界・限度を超えました。体調の異常が消化器官に表れて上司に現状を報告しても、「そういう甘えは止めてくれ」と返されていました。そして倒れました。しかし、これは過去のハムラビ法典が反作用として現れた苦しみの清算だったと思いました。倒れたことにより人事異動で以前の職場環境に戻りました。これは好機と思い、衝突した相手に会ったときに自分から謝罪をしていき、彼らとの接し方を改めていったそうです。これが現行資本主義の実態です。学生にも株式投資は企業に貢献する事だと教育されています。企業で働く現実を知らない学生に非正規の不平等を作る過ちも教えなければなりません。現在、地球全体は完全に柔軟性を失っており、自力では収拾がつかない状況に入っていることが否定できません。これの意味するところは忍耐の限界を超えて、既に打つ手の無い我慢の状態になっているということです。また人生も有限です。罪の清算は生きている間にした方が良いのです。

 

反地球からやってきた救い人の「救い」とは、八つの決まりに共感できる人々の生き方を心の本質である柔軟な姿勢に導くことです。救世主が肩代わりの清算をして本人が自覚するのではありません。なので救世主が皆を等しく救う解釈は誤りなのです。また、自滅が時間の問題であり、打つ手無しの我慢状態で犠牲者が出ないようにすることでもありません。地球全体に対しては打つ手無しの我慢状態に打開を与えるものですが、生き様を振り返らないで平然としていては、救い人は様子を見なければなりません。救い人は柔軟な姿勢で行動します。足ることを忘れた人々には、自業自得の危機的状況により自覚を促します。問題の真因を誤魔かしている持続可能「サステナブル」の条件が不足し、目標達成の根拠がなく「誰ひとり取り残さない」という美辞麗句矛盾しており間違いです。

 

 

加害者と被害者は互いに心の本質を体験から学び合い、

互いの未熟さを教え合っている。

自分勝手に思いを通そうとしてくる、忌み嫌う相手だと思っても、

コインの表裏のように、反面では教えてくれている感謝の相手でもある。

いじめられた時、「憎しみ」を抱かないで容易に許せるだろうか。

互いにその難しさを教えてもらっている事実を否定できない。

互いに成長し合う関係。その時、

忌み嫌い、触れてはならない相手であろうとも「憎めない」

相手となる

「忌み嫌う思い」と「憎む怨念の思い」は全くの別物である事がわかる。

互いに成長し合う自然の巧みな仕組みこそ柔軟な姿勢をあらわし、

自然法則の中にあらわれる人の心を否定できない。

 

正常の智恵で衝突をさける。異常の悪智恵は衝突につながる。

立場関係問わず、相手の毒は受け取らず鏡面反射して自覚を促す。ハムラビ法典の復讐は互いに続くので一時的な腹いせに終わる。毒を受け取れば迷惑なので自分の毒で返すのが復讐である。自分も毒を発しては相手と同類になる。毒を発する異常と揃えないのが正常の智恵で衝突をさける姿勢。鏡面反射では相手からの毒の贈り物は受け取らずに開封もしない。その特徴は第三者にも違和感なく衝突のない日常の一場面として行動する亊。故に、第三者は気が付かないが、加害者は意識して毒の贈りものをするので、自らの毒が返ってくれば分かる。自らの毒を返されてはどうしようもない。自業自得の苦みを味わって自覚を促される。自らは毒を出さず、故に自らの失態を誤魔かす必要はなく正々堂々とできて、腹の底から「スカッ」とできる満足感を得る。

正常な日常の流れに沿うことが柔軟な姿勢。異常ならば第三者にも違和感を与える。異常ならば遅かれ早かれ自滅に向かうため隠し通すこともできない。

 

Ⅴ章では日常や社会にある問題を例題形式で考察します。

冒頭の文章はそのために重要なことなので、

記載するためのページを頂きました。

 

 

 

 

《平等関係の取り方》

 

(Ⅴ章)日常や社会にある問題を考察

 

 考察とは正常を満たす八つの決まりを規準に判断することです。正常を満たす表現は視点を変えることで八つの決まりに限らず、多様性を持って多くの表現が展開されていきます。それらは互いに根源的本質で揃えられて矛盾しません。根源的本質は柔軟な姿勢を表すので多様性を持った多くの表現が展開されるのです。八つの決まりを規準に判断するのは、根源的本質が揃えられて正常を満たす他の表現を規準に判断するのと同じです。このように、根源的本質と矛盾することなく八つの決まりのみに囚われずに、多様性を持たせた表現で理解を深めることが肝要であり、表現が揃わなくても異常ではないことが分かります。

 

まずは要点を整理します。

 

(1)創造主の方針

『心の本質を体験から学ぶこと。』

私達の心も本質は創造主と同じです。食べ物の味は実食して分かります。同じく心も失敗の体験を通してその本質を理解、共感できます。体験学習の場が必用でした。そのために、創造主は想念のエネルギーから自らの肉体である物質世界(現象界)を創造されました。物質生成の規模や質は心の器に正比例します。創造主の心は宇宙を生み出す雄大さです。その余裕のエネルギーを基に自ら作り上げた世界のすべてを無償で与えています。創造主は自分さえよければ良いという考えはなく、全体のバランス(調和)を考え、余裕のエネルギーは皆に見返りを求めず与えています。宇宙・自然は見返りを求めてこないことから明らかです。「世界のはじまり」が、後にも先にも強大無比で雄大な心霊現象です。

 

(2)輪廻転生の目標

『心の本質を体験から学んで不動なものにすること(人間を卒業すること)。』

 

(3)「いじめ(失敗)」の改善目標

『心の本質を理解できる物差しを持って、心の本質を「いじめ(失敗)」体験から理解できる仕組み(組織体制)を構築すること。』

物質世界(現象界)は体験学習の場です。いじめの撲滅は失敗しないようにするということを意味しますが、不完全ゆえの人間なので撲滅は断言できません。正常社会でも「いじめ(失敗)」がなくなることはありません。

 

(4)心の本質を理解する物差し

『八つの決まり(有限を否定しない決まり):Ⅲ章を参照。』

 

Ⅴ章本編に入ります。

正常を満たす「八つの決まり」は柔軟な姿勢であり、その難しさを体験から理解していきます。難しさが分かれば「わがまま・我慢」などの短所は「恥ずかしいことではない」ことが分かるでしょう。ここを誤解すると短所を指摘されることで不快に感じ、言い分けや正当化をします。短所の未熟さを認めないで放置して怠けることが恥ずかしいのです。人も世の中も変わるために避けて通れない大切なところです。難しい試験問題を出されている物質世界で正解にたどり着く難しさを知るからこそわかる、人を許す「慈悲」の思い。「憎しみ・怨念」の感情は、加害者が向けてきた愚痴を返却したい思いです。迷惑なので返却したいのです。受け取ってから送り返せば「わがまま(報復)」であり、送り返さないで手元に持ち続けていれば「我慢」です。両者とも自滅する後手の加害者ですが、「慈悲」は柔軟な姿勢の「一つ」で相手の自分勝手に振り回されることのばからしさがわかっており、相手にせず意識から外す(執着しない姿勢です。しないことが心に余裕を作ります。慈悲とはそのような心の余裕によるものです。強いならば気になりません。逆も成り立つので気にしないようにすれば心に余裕ができて強くなります。それで寛容になれます。柔軟な姿勢には受け取らずに鏡面反射する方法、問題に触れないで時間の癒しで気持ちを和らげる方法もあります。方法は違っても問題に執着しないことで心に余裕をつくるということです。

 

本能の潜在意識は建設、調和です。故に、これに反する自分勝手な「わがまま」「我慢」は本能的に恥ずかしいと思うのでしょうが、どうか誤解しないでください。思い通りにならないことが当たり前の物質世界(現象界)では自分勝手になり易い短所を持つことは恥ではありません。勇気を持って自分の未熟さを素直に認めるという事です。そして、思い通りにならないことが当たり前の世界で、衝突を避ける柔軟な心と姿勢を身につけるために肉体を持って産まれてきたことを思い出してがんばって欲しい。皆さんの心の兄弟と心の友は、皆願っています。苦しみの実在界で居残りせず、成長して故郷に帰ってきて欲しいと思うからに他なりません。成長のためであっても失敗して苦しみの世界に落ちて欲しいと思う心の兄弟と友がいるでしょうか。そちらに引きずり込もうとするのは実在界の悪い人々で、悪霊とも呼ばれる自滅して居残りをしている人々です。彼らも苦の体験を通して罪の清算をして、罪を自覚して成長し天上世界に昇ります。自分の過ちから自分を救うのは自分です。

  

第三者に素直に相談することで、自分を良く見せようとする偽善の習慣は改善されます。柔軟な姿勢は難しいので愚痴を恥ずかしいと思うことはありません。素直に自分の愚痴を第三者に吐き出して相談してみましょう。大切なのは愚痴で終わらず建設的に調和される工夫をして行動に移すことです。日常では些細なことが原因で衝突する場合があります。細かなことにこだわる者だと思われたくないというのは良くみせようとする偽善です。物質世界(現象界)では心の中は分からないので、些細な言い方や表情の変化でも誤解が発生します。誤解であっても無くても不満を溜め込んだまま放置すると我慢の末に自滅します。理解し合って不満を溜め込まない関係をつくることが大切なのです。人間関係の体験を積み上げた人ならば相手の人柄まで考慮して示談できますが皆ができる訳ではありません。その架け橋となるのが第三者です。

 

以下は日常や社会にある問題を題材にした例題文です。基本的に考察範囲は例題文内に限定していますが、問題が見当たらないような場合には考察範囲を広げて洗い出しています。例題文は参考問題で日常が応用問題です。応用が効くように「八つの決まり(有限の価値を守る決まり)」を理解する必要があります。八つの決まりは根源的本質を日常生活に合わせて表現しています。八つの決まりに限らず、他の表現でも根源的本質は同じです。細かな部分で多くの具体的表現に置き換わっても、大きな部分を表す抽象的表現の根源的本質は揃えられます。細かな部分の多様性は大きな部分の根源的本質で揃えられます。しかし細かな部分の多様性で自分勝手な表現を自由とすることで、大きな部分の根源的本質と矛盾して異常「悪」になります。異常「悪」は根源的本質を無視した自分勝手から始まることが分かります自分勝手を通すために嘘をつき、自分勝手が通らないと愚痴を表します。資本家富裕層は政治献金「迂回献金」で政権を操作して自分達に都合の良い法律を作らせて権利化します。平等の嘘をついて誤魔かしています。自由は正常に根拠を置く平等の上に成り立っています。異常「悪」を見抜く根拠は自己勝手による嘘です。しかし、ビクトル・ユゴー作のレ・ミゼラブルのように司教がジャンバルジャンを正常の道へ導くためにつく嘘ならば良いのです。嘘の内容が自分に都合の良い「わがまま」が異常なのです。同じく、比較で不平等(いじめ)が起こるのではなく、揃えられるか否かを都合良く誤魔かす「わがまま」が異常なのです。応用問題として自分の人間関係を考えるのは良いことですが、理屈の理解で終われば座学です。体験して理解することが日常の応用問題を解くということであり心で分かるということです。考察する時は当事者の立場を離れて無関係な第三者の立場で考えます。無関係な第三者の立場だからこそ気楽になれます。Ⅰ章で「ゲーム感覚でクイズ問題を解くように」と語ったのはそのためです。

 

以上から、八つの決まりを理解するには揃えられない細かな部分の表現を体系的に捉えることが大切です。【表現の使い分け】で体系的に整理してあります。細かな部分では内容により自然な言い回しが多くあります。ここでいう内容には多要素があります。時代背景、社会環境、状況、説く人の違い等です。それぞれの違いにより細かな部分の表現は揃えられません。しかし、これこそが先ほども強調したところなのですが、根源的本質である有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)で揃えられています。根源的本質から細かな部分の多様的表現に移行する時に、自分勝手から整合性が取れなくなるところから異常の悪が始まります。過去の歴史における代表的偉大な指導者の方々が説かれた教えは時代背景や社会環境を考慮し、さらに各自の教え方の表現に違いはありますが根源的本質は揃えられており、結果は同じことを教えてきています。しかし、指導者没後の伝達過程に打算な自分勝手が入って根源的本質と矛盾する内容を多く含んで伝えられてきました。印刷技術もなく正確に伝わりませんでした。有限という表現を使って説くには自然科学の発展が必要でした。今に至り、有限という表現を使うことで、これまでの偉大な指導者の方々の教えを体系的に整理でき、矛盾なく同じ根源的本質を教えていたことを伝えます。

 

例題の最後には、八つの決まりによる「いじめ」判定も行います。また、例題9に記していますが、表現の違いは細かな部分が揃わないだけであり、表現したことが何を意味するのかが大きな部分の本質を表す大切なところです。大きな部分や細かな部分の表現方法を決めつけたように解説しているのではありません。大切なのは意味が外れないことです。有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)ことが根源的本質であると表現していますが、意味が同じならば別表現でも構いません。根源的本質の抽象的意味から外れた表現が自分勝手になります。比較の使い方は平等を理解するために欠かせません。そのため大きな部分と細かな部分に分けた解説をいくつか含めています。

 

(例題1)

『ある家庭ではAさんとBさんは電気代が高騰しているので、自分の部屋を30分以上空ける時はエアコンはOFFにしていた。ところが、CさんはAさんとBさんの節約対策を知らずに、エアコンをONのまま部屋を1時間以上空けていた。AさんとBさんはCさんに事情を説明したが、Cさんは「エアコンをOFFにしないのは自分の自由でしょう。なら、AさんとBさんもONのままにすればいいでしょう。」と反論した。』

(解説1)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「部屋を1時間以上空ける場合のエアコンの稼働に関すること」で揃い、細かな部分では「ONにするか、OFFにするか」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。しかし比較の結果を誤魔かせば比較の役割を否定した行為になる。比較が原因ではなく、全体のバランス(調和)よりも自己都合を優先する「わがまま」が原因であることが分かる。これが比較の限界を無視した不平等(いじめ)を表す。テーマは「家計を圧迫する電気代の節約」で全体範囲は家族全員となる。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためにはOFFで揃えられる。全体のバランス(調和)を取るために揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、電気のON/OFFは揃えられる。大きな部分と細かな部分の表現に異常が見て取れるとは限らない。貧困ならば異常が見て取れるが、ON/OFF表現のように判断できない場合も多くあるので、しっかり内容を把握して、宇宙・自然の根源的な大きな部分の本質である正常と比較判断しなければならない。正常ならば有限を否定しない(限界・限度を超えないで「なかほど」を持続する)。

(柔軟な姿勢に正した解答1)

『家族全体の家計事情を考えて、CさんはAさんとBさんの提案に合意し、自分の部屋を1時間以上空ける時はエアコンはOFFにすることにした。』

(体系的確認1)

バランス(調和)を取らずエアコンを消さない

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)を取らずエアコンを消さない

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)を取らずエアコンを消さない

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)を取らずエアコンを消さない

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)を取らずエアコンを消さない

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)を取らずエアコンを消さない

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、意味はすべて家族全体のことを考えないCだけの都合に偏った「型にはめる、決め付ける、囚われる」

=「執着する」を表している。Cの「わがまま」であり、家族全体を考えていないので自分の思いと揃わないと愚痴で満足できない。愚痴を意識的に家族へ向けてエアコンはOFFにしないように反論する状態を表している。

(いじめ判定1)

Cが全体のバランス(調和)を無視した加害者。AとBは柔軟な姿勢として現状の事実のみを相談した被害者となる。

 

(例題2)

『AさんはBさんの先輩で年齢も上だが、Bさんは昇進してAさんの上司になった。この状況でAさんは先輩で年上という自分に有利な条件だけでBさんと比較し、上目線で指示も聞かなかった。後輩で年下のBさんは正しい平等の指導をしないで、不満の感情のみでAさんを叱ってしまった。』

(解説2)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「経歴」「年齢」「立場」で揃い、細かな部分では「経歴の差異」「年齢の差異」「立場の差異」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「職場の上下関係」で全体範囲はAとBさんの2人関係である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、この内容でも細かな部分の差異は揃えられない。大きな部分で揃えられる条件を互いに不足無く照合し、細かな部分でも揃うか否かの差異を照合する。都合の良い条件だけ出して比較条件の不足した不平等にしない。自己都合を有利にする条件だけ出して、自己都合に不利な条件を隠さないことが不足無くの意味するところ。組織集団の中で公式に違和感ない情報のみを使う。執拗な詮索で衝突しては本末転倒。このテーマでは3条件比較であり、その内の2条件で上回っていれば上ということは決めつけられない。「経歴」「年齢」「立場」は互いに揃えられない条件であることが比較判断され、これ以上は比べようが無いからである。例えば経歴が上であることと、年齢が上であることのどちらが上かということは比べようが無いことからもわかる。但し、3条件の差異が互いに同じ場合には対等関係が取れる。対等関係が明確に取れない場合は互いに認め合い、譲り合う謙虚な姿勢が平等関係の取り方1)を満たす。「なかほど」のバランス(調和)を満たす。

また、互いに気心が知れて条件の差異を埋め合うことができる場合には平等関係の取り方1)を凌駕する。夫婦で年齢差があっても対等関係を結べる。心の世界では有限を凌駕する。物質世界(現象界)は多種多様の人々から成る組織集団である。八つの決まり、平等関係の取り方は有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)全体のバランス(調和)を説くのであり、皆が等しく親密な関係になることを説くものではない。これは個々人の親密の度合いは揃えられないことからわかる。

注意:僅かな年齢や経歴の差異に囚われてはならない。集団中の第三者目線での

         対等判断を素直に受け入れ、認め合い、譲り合う謙虚な姿勢が平等関係の

         取り方1)を満たす。

(柔軟な姿勢に正した解答2)

『AさんはBさんの先輩で年齢も上だが、Bさんは昇進してAさんの上司になった。この状況でAさんは先輩で年上であるが、後輩で年下のBさんを認めて姿勢を低くして指示に素直に従った。先輩Aさんの姿勢からBさんも正しい平等を理解して、斜に構える部下に愚痴の感情のみで叱ることを改めた。また立場は上回っても経歴や年齢では下回っていることを考慮して上目線は使わずに、バランス(調和)のために従来の姿勢を取った。さまざまな経歴、年齢層から成る職場では一様な対応は通らないことも会社のマネジメントから学んでおり、その通りに実践していた。』

(体系的確認2)

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、意味はすべて自分だけの都合に偏った「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」を表している。Aの「わがまま」であり、自分に有利な不公平が通らないと愚痴で心が満たされない状態を表している。

(いじめ判定2)

全体のバランス(調和)を無視してBさんの立場を否定する行為は、平等関係の取り方を否定した不平等行為であり「いじめ」である。不利な都合を誤魔かす先輩Aさんが加害者となる。正しい平等を指導するのであれば後輩Bさんが被害者の上司である。この場合は下の立場からのハラスメントであるが、正常の定義を知らなければハラスメントの種類には切りがない。異常の問題は限界・限度なく発生するためである。しかし、このテーマの中では愚痴の感情のみで叱るBさんも被害者から後手加害者になっている。ハムラビ法典はバランス(調和)を悪化させるだけであり、八つの決まりを否定する。

 

(例題3)

『職場の更衣室がとても狭く、互いにすれ違う時には体を斜めにそらさないとぶつかってしまう。ところが面識のある同僚で、すれ違う時に「常に毎回」そのまま体をそらさないで直進してくる者がいる。ある時、自分もそのまま直進してぶつかってケンカになった。』

(解説3)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「すれ違う時にぶつかる狭いところでの対応に関すること」で揃い、細かな部分では「体をそらす(そらす以外の工夫した対応も含む」「体をそらさない」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「意図的にぶつかるようにして相手に退けさせる行為」で全体範囲は自分と同僚の2人関係である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、この内容では細かな部分の差異は揃えられる。面識があり常であるために識」してやっている可能性ある。「いじめ」を始める「意識」である可能性がある。第三者の上司や人事総務に相談して、自分だけの思い込み(恣意を働かせる)とならない対応が必要である。人間関係の実践を重ねている社会人ならばその場で直接「体をそらさないと、ぶつかって危ないよ。」と伝えることもできるが、このような内容では思い込みであるかを直接本人に確認することはできない。「わざとぶつかろうとしているのか。」と聞くわけには行かない。ハムラビ法典になって失敗してしまうので相手ではなく自分の足りなさを考え直すのである。すぐ感情に流される事なく「理性を磨く」努力をする。感情に流されるよりも状況判断できないとならない。柔軟な姿勢には理屈だけでなく体験を重ねた応用力が求められる。この事例でさらに応用を利かせた対応も考えてみたい。ルールは組織集団により一律ではない。この更衣室ではロッカーは割り振られていても着替える場所までは指定されていないとする。違和感のない行動を取るためには、自分のロッカーから遠く離れた所で着替えるのは良くないが、近くに場所が空いているならば使用できる。自分のロッカー前で着替える必要はないのである。すれ違う前に着替えを始めてしまう。相手は避けざるを得ない。着替えている所を避けずにぶつかり、謝りもせず立ち去れば加害者宣言を自分でしてしまう事になる。また、混雑した時間帯の場合、着替えている第三者の近くで相手が通り過ぎるのを待てば、避けて通らざるを得ない。第三者には分からないが相手は意識しており、避けて通らざるをえない巧みな対応をされたことに気がつく。違和感の無い自然な対応のために仕返しの口実もない。これで鏡面反射された自分の愚痴を受け取ることになる。愚痴を跳ね返し、報復の連鎖まで絶って「スカッ」とさせる。はっきりした暴言や悪態も問題ではあるがそれよりも、自分勝手に誤魔かしていじめてくる者に対するほど衝突を避けるために知恵を働かさなければならない。愚痴に思って語るだけでは建設的な工夫がなく自己成長がない。もちろん相手の人柄を見なければ単に体をそらしてそのまま譲るのが最も良い。相手の自分勝手に振り回されるばからしさを知っているからこそ、相手にせず意識することなく心に余裕をつくるのである。しかし「いじめ」のはじまりには必ず仕返しされずに怖くない相手を選ぶという行為があり、相手によって不平等な態度を使い分けるという行為がある。相手の人柄や立場関係など関係なく「いじめ」は発生しない。自分勝手に相手を意識することなく「いじめ」は発生し得ないという事。自分勝手な者であるほど相手の素直さや謙虚さ、自制した態度に対して調子に乗って事態を悪化させる一方なので工夫が必要なのである。そして「いじめ」とは異常であり限度なく終わらない。だからこそ責任と権力を持つ第三者に相談するのである。職場では上司や人事総務、学校では担任の先生に相談するのである。相談窓口もあるが、現場を日頃からわかっている第三者でなければ十分でない。「現場」へ直接行き、「現物・現状」を直接確認し、「現実的」に評価や判断を行う三現主義が大切ということ。自分で工夫する事を考えられるのであれば、その内容を第三者に提案して意見を伺うのも良い。はっきりした暴言や悪態でなければ思い込みの場合もあり、自分の方が加害者である場合もある。はじめから指導してもらう事を前提に第三者に相談に行くとは限らない。現状をわかってもらうことから始まるのである。仕返しの不安は即指導と考えるからであり、第三者が現状を知っているだけでも精神的な重みは軽減される。事実のみを報告・連絡して問題にどのように対処するか相談するのである。どのように工夫したらよいか伺うのである。第三者が指導する場合は「現実的」に問題に対して評価や判断を行える段階においてである。それは責任を伴う権力によるものだからであり、指導を行ったあとのアフターフォローも含まれて容易なことではないことがわかる。だから、即指導で仕返しの不安など思う必要はなく、とにかく報告・連絡・相談することなのである。いろいろな場面で工夫した行動を繰り返す過程で、いままでは問題として気にしていた生き方が、問題とせずに気にしない生き方へと変わっていく。自分勝手な者は自業自得で心底痛い思いをするまでは変わることは難しいので振り回される事がばかくさくなる。このように経験を重ねて問題とせずに気にしない、囚われない、執着しない自分を築くのが心の成長であり、心が強くなるということである。反省の目指すところである嫌なものを意識してしまうと心の弱さになる。自分勝手な者はそれを面白がってさらに「いじめ」を悪化させるのである。それをさらに意識しては自分も悪い方へと引きずり込まれて加害者と同じ土俵に立ってしまうからである。加害者自身が変わることは難しいが、集団組織として段階を踏む罰則規定を盛り込む工夫で表面上の態度に対しては抑制効果も出せるので「いじめ」対策には欠かせない。心底痛い思いをするとは直接の仕返しによるものではない。残念なことではあるが罰則なく形式のみの対策では自覚の無い者の自分勝手な行いを抑制するのは難しいのが現実である。衝突しないための工夫すであり、それを行動に移すということは相手とは異なる土俵に立つので気にならなくなる。揃えられなくなることで無関係になるからである。反省とは加害者だけでなく、加害者の自分勝手に左右されない自分になるためにも必要なのである。反省が行動まで含むのは、行動に移さなければ成長につながらないからである。反物質世界の実在界(あの世)では思ったことがそのまま行動となるが、物質世界の現象界(この世)では思っただけでは行動にはならない。故に物質世界の現象界(この世)では自分勝手な思いが出てきても、衝突せずにバランス(調和)を取るため、行動(言動を含む)に移さないように自制を働かせる事が理性を磨くことになり心を成長させる。まずは自分勝手を「思いで留まれるか」である。思いで留まれない場合に問題となる。そして第三者が間に入らなければ問題は悪化する危険がある。仕事だから、大人だからという事では割り切れない状況なのである。自制を働かせる練習、つまり理性を磨く練習を重ねていくことで自分勝手な思いが出てこなくなってくる。これは理性の表面意識である「習慣」が改善されるからである。心の形成は良くも悪くも習慣の依存度が高い。理性によって物の道理を判断するのである。その道理が衝突せずにバランス(調和)を取る事である無責任で指導力のない第三者は単に「気にするな」で終わり、問題を報告すると騒ぎ立てたとして報告自体を迷惑扱いし、静かにしている方を良しとして実際の加害者の方を高く評価していく。思い込みでもない場合には本当の被害者を問題者にしたてあげる。気にしないようになるためには工夫した体験を重ねるが必要があり、その努力の過程で「イライラ」して振り回される自分が愚かに思えてくることが大切な成長の糧となる。このようにして「いじめ」が成長の糧として消化されるのである。体験なく気にしなくなれるのであればこれほど容易なことはない。行動して、経験して答えが出た時が、心で理解したということになる。心が理解した分量が器量を大きくする。

(柔軟な姿勢に正した解答3)

解説内で対応例を示したので略す。

(体系的確認3)

バランス(調和)を取らず道を譲らない

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)を取らず道を譲らない

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)を取らず道を譲らない

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)を取らず道を譲らない

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)を取らず道を譲らない

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)を取らず道を譲らない

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、意味はすべて、同僚側の都合に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」を表している。対抗意識に囚われて譲れない状態になっている。同僚側の「わがまま」でありバランス(調和)を考えないので体をよけて道を譲りたくない自分勝手が通らないと愚痴になる。しかし相手に報復したくても鏡面反射されては仕方なく、相手に向けた自分勝手な対抗意識の苦さを味わう。

(いじめ判定3)

対抗意識を優先した同僚側がバランス(調和)を無視した加害者。相手側も同じようにぶつかれば後手加害者。しかし、柔軟な姿勢で工夫して正面衝突を回避すれば被害者となる。このような些細な内容でもいろいろ考えられる。思い通りにならない物質世界(現象界)の人間関係で、衝突なく対応する「柔軟な姿勢」の難しさを感じてもらいたい。本例題は分かりやすく状況判断しやすい内容を選んだものである。

 

(例題4)

『平安時代、関東の豪族であった武士Mは戦地にて敵に情けをかけ、命までは取らず見逃したり、稲の刈り入れ時などを思いやって農民を強引に出兵させたりしなかった。ところが、情けをかけられた敵は恩を仇で返して失脚を企て、再び剣を交える事態となる。武士Mは農民を思いやってあげていたので、戦には駆けつけると信じていたが、農民も恩に報いずに戦を放棄し、武士Mは戦に敗れて物質世界(現象界)を去った。武士Mの心は裏切りに対する愚痴(憎しみ)から満足感が得られず、天上の実在界に戻れないでいる。』

(解説4)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「信用への態度」で揃い、細かな部分では「恩に報いる」「恩を仇で返す」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「思い込みと現実が揃わない不満」で全体範囲は武士Mと味方の農民達、対戦相手である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、この内容では細かな部分の差異は揃えられる。武士Mが対戦相手と農民達は裏切らず恩に報いると思い、対戦相手と農民達も恩に報いる場合である。裏切りは自分勝手であるが、相手が絶対に裏切らないと決めつけるのも自分勝手になる。本題では武士Mの期待が外れて、対戦相手と農民達が裏切るのでバランス(調和)が取れない。本題が解き難いのは、自分は悪くないように思えるところにある。信じる際に保険が効くのは天上の実在界の場合である。実在界では心の想念(思う、考える)にフィットした世界にいるので裏切ることを考えれば、その時点でそのような悪の世界に落ちていく。私達が肉体を持つ現象界では結果(反作用)が出るまで時間がかかるが、実在界では即座に結果(反作用)が現れるため反省も促されやすい。但し、天上界の人間関係は自分にフィットして安定していること、言葉を交わさなくても心は通じることなどから現象界で生きるように「わがまま」を通すための嘘(誤魔かし)が起こりにくい。自分の「わがまま」が現れにくい世界なので自分の未熟さ(短所)が分かりにくく成長が遅い。現象界では裏切り行為に保険はつけられない。法的拘束力を持つ契約を日常の全てに適用させるのは難しい。しかし、裏切りに対する罪の清算は成長するために遅かれ早かれ発生する。自分勝手な嘘と騙し合いの環境では人間不信であっても仕方ない。「八つの決まり」から裏切り者との衝突を避けることが大切である。無知ではなく理論武装した情報を騙されないために使い、自分から人を騙す裏切り行為には使わない。人は顔を合わせた会話が大切である。仮に劣悪な環境または孤独な環境に置かれた場合でも、自分だけの世界に閉じこもって人と話す必要は無いと思ってはならない。人間関係が整えば、いつでもウェルカムと思う事が欠かせず、表面上だけの会話や挨拶だけでも無いよりは良いのである。人と話す必要は無いと思うと自閉症を発症する。しかし率先して全ての人を疑う必要を述べているのではない。いかに親しい間柄でも絶対に裏切らないと決め付けてはならない。自分の都合に偏らない「なかほど」の状態でなければならない。騙す方が自分の都合に偏っているならば、信じ切る方も自分の都合に偏っている。修羅の世ならば裏切りを想定内に入れ、それでも自分は情けをかける心構えが必須である。武士Mが「八つの決まり」で生活するならば武士の生き方に疑問を持ち、戦を避けて敵に領土を譲る無血開城を取る。鳥羽・伏見で敗れた15代将軍徳川慶喜は江戸に逃れたが、新政府追撃の危機にあった。諸外国(フランス、イギリス)の干渉もあり甚大な被害を江戸の人々が受けないようにするため、旧幕臣の勝海舟が新政府側の西郷隆盛と会談し、江戸城を明け渡す条件で追撃を食い止めた。着眼点は人々の命と江戸の町(インフラ設備)を守ろうとする勝海舟の思いとそれに共感した西郷隆盛の思いにある。勝海舟と西郷隆盛の最善の柔軟な姿勢が現れている。最善であって理想ではない。理想の場合、思うように行かないと愚痴になり「いじめ」を誘発する。理想を貫くと柔軟な姿勢を否定して自滅する危険がある。争いの状況で「八つの決まり」から判断すると無血開城を取ることになる。これは相手の攻撃を受け流す(相手にしない)柔軟な姿勢の一つである。「八つの決まり」で判断する武士Mの生き方は解答として以下のようになる。

(柔軟な姿勢に正した解答4)

『武士Mは戦を避けて領地を明け渡し、自分は立場を追われても心の中では裏切りも覚悟の上で敵や農民に情けをかけたのだと、納得の思いで満足して昇天した。』

(体系的確認4)

バランス(調和)よりも自分の思いを取る

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分の思いを取る

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分の思いを取る

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分の思いを取る

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分の思いを取る

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分の思いを取る

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、裏切る側も裏切られる側も自分の都合に偏った「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

両方の「わがまま」であり、バランス(調和)を考えないので自分勝手が通らないと愚痴で満足できない。対戦相手は武士Mを裏切って倒さないと満足できない。武士Mは相手が裏切らないとする思い込み通りでないと満足できない。八つの決まりで判断すれば武士Mが取る行動は無血開城であり、農民達がとる行動も戦に協力することではない。争いは異常なので正常とは無関係である。正常による平等関係がないので互いに自分勝手の不平等を相手に武力で押し通す。不平等を相手に押し通している状態を自由とする誤魔かしがある。正義の戦い、聖戦と呼ばれる事からもその誤魔かしがわかる。

(いじめ判定4)

裏切る側の対戦相手はバランス(調和)を無視した加害者。決め付けた思い込み(恣意を働かせる)から報復の怨念を抱く武士Mは我慢者。裏切りに応戦していた時は後手加害者。しかし、裏切りも覚悟の上で敵や農民に情けをかけて納得の思いの場合は被害者。農民達は武士Mに協力して参戦した場合は後手加害者であるが、参戦しなければ争いとは無関係な第三者となる。武士Mに恨まれても農民達がバランス(調和)のために争いを避ける考えならば無関係の第三者である。調和の心は怨念を鏡面反射する。つまり呪いは通じない。エネルギー波動が異なるためであり、同時に憑依も不可能である。同情と慈悲は別である。慈悲に限らず正常な心の本質は問題を意識しない、問題に執着しない事による心の余裕にある。異常を相手にしない事による心の余裕にある。ところが成仏せずにいる者達に同情していては正常と異常の分別がなく、単に苦しみを分かってくれる者として近寄られ、苦しみから逃れるための憑依のターゲットにされる。異常と波動を合わせない心の余裕によって寛容になれるのである。寛容な心で見守るのが慈悲である。同情とは異なる。

 

(例題5)

『例題4を読んだAさんは、慈悲だけが憎しみという心に空いた不満足の穴を埋めれると思った。』

(解説5)

八つの決まりを誤魔かす内容でなければ良いので、八つの決まりの内容と比較確認する。型にはめず、決め付けず、囚われないことが正常にバランス(調和)を取る根拠。慈悲だけに決め付けないで柔軟な姿勢を取る。柔軟な姿勢では他にも相手の毒を受け取らずに鏡面反射する方法、問題に触れないで時間の癒しで気持ちを和らげる方法もある。方法は違っても問題に執着しないことで心に余裕をつくるということである。相手の毒を受け取らないと問題に触れない(相手にしない)は同じ事である。鏡面反射では第三者から見て問題にならない自然な対応を工夫して「いじめ」に歯止めをかける。状況に合わせて柔軟にバランス(調和)良く対応を変える。慈悲だけが憎しみの心を満たせると考えるならば、八つの決まりの誤魔かしになる。慈悲に限らず満足感を得る(心に余裕をつくる)ところに着眼する。愚痴とは自分の思いが通らないことに対する不満であり、満たされない思いである。未練や無念も同じである。表現は様々でも本質は愚痴である。死後、土地や家屋に執着して昇天しない事例がある。これは地縛状態と定義される。正確には家屋が無くなっても土地に残り続ける。ここで、次のことを考えて欲しい。自分が心底お気に入りの住み慣れた土地と家があって、都市計画で移動を余儀なくされたらどうだろう。肉体がある時は肯定的になれない感情に対して、行動を通して習慣(理性の表面意識)に働きかけていくのである。最初は我慢していたが、習慣によって「住めば都」になる。但し、この場合は都市計画が外力として作用して、土地と家に執着していた慣性の状態を変化させたのである。現象界で肉体を持って生きていると、日常から刺激要因が外力として作用してくれる。心のベクトルの向きを変えてくれるのである。時間が癒すことも同じ理由による。問題点に触れないでいれば、他の外力が作用して執着していた事から解法されて不満が解消されていく。軽い症状ならば、一時の気分転換で済む場合もある。しかし、肉体を去って天上の実在界に昇天しない場合は、死んだ時の執着した状態で慣性の法則が働いて抜け出し難くなる。自決した場合は、その時の苦しい状態が慣性の法則で持続して苦しみから解放されない。自決を絶対に回避して生き抜くのが賢いことの根拠である。同様の理屈で、お気に入りの家を離れたくない思いで世を去ってしまうと、引越し絶対お断りにより、地縛状態になる。以上から憎しみや怨念の不満を解消して心に満足感を得るのは慈悲だけではないことが言える。満足感を得る(心に余裕をつくる)ことに着眼し、型にはめない、決め付けない、囚われない柔軟な姿勢から「執着しないこと」が正答であり、慈悲とは「執着しないことで心に余裕をつくる一つの方法」となる。同情と思いやりは別である。正常と異常の分別が無く救われる事の意味がわかっていないと単に「かわいそう」という同情になる。単に「かわいそう」では悪霊に憑依されてしまう人もいる。思いやりならば救いの意味を知っており有力な外力として憎しみの慣性状態に作用して不満足の穴を埋めて満足感を与える。「思いやりの気持ち>憎しみの気持ち」であることが証明される。テーマは「慈悲のみが憎しみを癒せるのか」で全体範囲はAさん本人とAさんを「過去いじめていた人、現在もいじめている人」全員である。

(柔軟な姿勢に正した解答5)

『例題5を読んだAさんは慈悲に限らず満足感を得る(心に余裕をつくる)ことが大切だと思った。憎しみは不満足の穴で心に余裕を失わせると思った。これからの変化ある日常に目を向けて前進あるのみだと思った。』

(体系的確認5)

バランス(調和)良く状況に対応しない

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)良く状況に対応しない

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)良く状況に対応しない

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)良く状況に対応しない

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)良く状況に対応しない

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)良く状況に対応しない

=「わがままで比較の結果を否定する」

慈悲は執着しないことで心に余裕をつくる一つの方法であり、型にはめ、決め付け、囚われては本末転倒である。

(いじめ判定5)

慈悲しか認めない考えは「わがまま」になり、それでAさんは慈悲の対応を取ることができれば被害者だが、取れなければ我慢者(偽善者)になってしまう。

 

(例題6)

『現行農業は人間に都合良い商品作物だけに着眼する。施肥、除草剤、農薬の使用に表れている。人間に都合良い肉食系昆虫は益虫、葉を捕食する草食系昆虫は害虫と決めつける。人体への悪影響は無いとする薬剤であるが食事は毎日一生続く。長期では発癌性がある。』

(解説6)

八つの決まりを誤魔かす内容でなければ良いので、八つの決まりの内容と比較確認する。

 

商品作物に偏らず、他の生物も生かすことで食物連鎖による生物全体での対称性保存則は成立する。自然栽培が対称性保存則を満たす。テーマは「人間の自己都合を通した現行農業」で、全体範囲は生産者、販売者、消費者、自然生態系全体である。自然生態系全体とは圃場(水田や畑)に決めつけた範囲ではない。圃場内限定の境界条件では保存則を説明する物質循環の収支が解けない。対称性保存則とは流れを持つ全体のバランス(調和)である。流れを持って全体で減りも増えもしない保存則が成立する。これが有限環境を持続可能にさせる正常の根拠。商品作物だけに着眼して食物連鎖を崩せば生体の循環が失われる。そのような環境で育てられた作物は貧弱であり自立して生きていけない。また人体で対称性保存則が成立しているならば、人体の各臓器は自立した上で、認め合い譲り合って全体のバランス(調和)を持続可能にしている。現行資本主義体制は18世紀後半の産業革命から始まり、資本家達富裕層の利益の吸い上げ(奪い合い)に一貫して、今では地球全体でのボトルネック問題として足ることを知らず限界・限度を超えて、それでもSDGsの物陰に隠れて誤魔かしている。持続不可能を続けている。

 

以下に、著書『奇跡のリンゴ~「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録~』から自然栽培は対称性保存則を満たす農法であることを示す。

ⅰ)

自然の中に、孤立して生きている命はないのだと思った。ここではすべての命が、他の命と関わり合い、支え合って生きていた。そんなことわかっていたはずなのに、リンゴを守ろうとするあまり、そのいちばん大切なことを忘れていた。

ⅱ)

自然の中には、害虫も益虫もない。それどころか、生物と無生物の境目すらも曖昧なのだ。土、水、空気、太陽の光に風。命を持たぬもの(これに関しては霊子の存在が立証されることで、素粒子からすべてが心を持つ生命体であることが明確に理解される。心無き存在はない。)と、細菌や微生物、昆虫に雑草、樹木から獣にいたるまで、生きとし生ける命が絡み合って自然は成り立っている。その自然の全体とつきあっていこうと木村は思った。自然が織る生態系という織物と、リンゴの木の命を調和させることが自分の仕事なのだ、と。

 

日本はエネルギーを筆頭に食料も全く自立できていない。資本家達(投資家富裕層)が儲かるように社会が仕組まれ、その他国民は利益を吸い上げられ、奪われ続け、自立のための研究開発は損なわれてきた。富裕層優遇の税の空洞化で税収は乏しく、安定した税収で自立した世の中を築かないできた。持続可能とは対称性保存則を満たして自立することである。著書『奇跡のリンゴ~「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録~』から、農薬も肥料も使わずに一反あたり9俵余りの収穫を上げられるまでになった。農薬や肥料を使った一般の水田でも、一反あたりの収穫は10俵程度だから、ほとんど遜色はない。とされる。

 

権利を理由にバランスを取らずに自分勝手を通してはならない。

 

以上から現代農業を正常と考えるならば、八つの決まりの誤魔かしとなる。

(柔軟な姿勢に正した解答6)

『自然生態系全体での物質循環や食物連鎖のヒエラルキーを崩すことのない自然栽培で有限環境での対称性保存則を満たし、持続可能な農業を構築する。そして日本国内の食料の自給自足を達成させる。人間の自分勝手を通さずに柔軟に自然と向き合う農業を確立して食の安全な自立を達成する。』

(体系的確認6)

バランス(調和)より商品作物を優先する

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)より商品作物を優先する

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)より商品作物を優先する

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)より商品作物を優先する

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)より商品作物を優先する

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)より商品作物を優先する

=「わがままで比較の結果を否定する」

商品作物は自然生態系を成す構成要素の一つで、それだけに囚われては本末転倒である。商品作物を唯一としては「わがまま」となる。

(いじめ判定6)

商品作物以外の自然生態系の構成要因を薬剤で駆除する現代農業は「わがまま」である。食物連鎖のヒエラルキーバランス(調和)を崩される生物達は皆被害者となる。現代農業で生きている私達人間は皆加害者となる。その自分勝手な行いが環境汚染や長期で起こる健康被害として降りかかっている。罪の清算による苦しみである。自然栽培に農法を改善するための資金の確保が必要である。農家各自の所得は低く、自然栽培に切り替える経費を全て農家が負担するのは困難である。資本家富裕層優遇の税の空洞化を撤廃して、消費税を廃止すると共に農業をはじめとする第一次産業に公金を割り当てて国の自立に取り組まなければ自滅するのみである。これが真に恐ろしい罪の清算である。

 

(例題7)

『現行資本主義体制における企業経営では、限界・限度のない利益の追求が目標に掲げられている。対前年の何%向上を目標に掲げて現状維持では評価に値しないとされる。さらに資本主義の意味は「資本が経済上の中心勢力となり、無限に利益をもとめる社会制度」とされる。』

(解説7)

八つの決まりを誤魔かす内容でなければ良いので、八つの決まりの内容と比較確認する。テーマは「限界・限度を知らない企業の利益追求」で、全体範囲は評価をする側の人達と評価される側の人達である。生物の肉体は限りなく成長することはなく、個体差がありながらも限界・限度を持って止まる。そして、必ず終焉を迎える。企業も同じく有限の現実を否定することはできない。食物連鎖のヒエラルキーの各層では対称性保存則が成り立ち、異常繁殖や絶滅のないバランス(調和)が保たれている。人は痩せ過ぎの場合はカロリー摂取を増やし、太り過ぎの場合はカロリー摂取を減らす。エネルギーフラックスの収支で体全体のバランス(調和)を取ることがダイエットの目的である。人体でのエネルギーの対称性保存則を形成することである。50:50のみが平等関係の取り方ならば、揃えられない性別や体格を問わず、すべての人が同じ内容と量の食事を取らなければならない。市場が飽和状態になれば必然に企業成長は止まる。経営を広げ過ぎて失敗する場合もある。市場の動きを良く観測して企業成長の限界・限度を知らなければ経営破綻(自滅)することになる。限界・限度の設定なく利益追求の成長目標を掲げては、評価をする側の人達と評価される側の人達のバランス(調和)を崩す。

以上から現行資本主義体制の経営を正常と考えるならば、八つの決まりの誤魔かしとなる。

(柔軟な姿勢に正した解答7)

『市場の動向から経営成長の限界・限度を状況判断し、利益の向上のみならず現状維持も評価の対象にした。さらに、根源的本質と矛盾しない正常な多数決による「民主主義社会」に改めた。根源的本質と矛盾しない正常を民主主義の物差し(規準)にした。』

(体系的確認7)

バランス(調和)でなく無理な利益向上を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)でなく無理な利益向上を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)でなく無理な利益向上を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)でなく無理な利益向上を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)でなく無理な利益向上を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)でなく無理な利益向上を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて評価する側の都合に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

限界を知らない利益追求で目標が達成されないと愚痴で心が満たされない。目標未達の愚痴を意識的に評価される側の人達に向けて正常を誤魔かした指導をする。

(いじめ判定7)

評価する側の者達が評価される側の者達とのバランス(調和)を無視した加害者。

 

(例題8)

『TK大学の理科系を都内の高校に通うAさんと、地方の高校に通うBさんとが目指した。Aさんの家庭環境は経済的にも恵まれ有名塾にも通えるのに対し、Bさんは経済的余裕もなく地方住まいで有名塾もない。AさんとBさんは知り合いであり、BさんはAさんの境遇を妬ましくも不公平に思っていた。』

(解説8)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「経済環境」「塾環境」で揃い、細かな部分では「経済的に恵まれている、経済的に恵まれていない」「塾がある、塾がない」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「受験の境遇」で全体範囲はAとBさんの2人関係である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、このテーマも揃えられない。AとBさんは知り合いであるが、家庭の経済事情や居住地事情は揃えられない。地方との格差是正は大切であるが、等しく50:50にするだけが平等ではない。地方を東京都と同じにすることだけが平等ではない。経済事情も貧富の格差是正は欠かせないが、すべての家庭の収入を揃えることが平等ではない。BがAさんを妬ましく不平等に思うことは、比較の結果を誤魔かし比較の役割を否定した行為である。比較が原因ではなく、Aさんとのバランス(調和)よりも自分勝手を優先する「わがまま」が原因であることが分かる。互いが与えられた環境で最善を尽くして受験をして結果を出すのが柔軟な姿勢である。輪廻転生の目標はどのような立場に置かれても、全体や相手との関係に応じて、バランス(調和)を取るように自分の思いを通さないようになれることであって、実在界から肉体を持って産まれてくる時に自分で了承済みなのである。正常と正常の関係で認め合い譲り合う姿勢を身に着けることである。異常は認められない。異常には触れないで、異常の毒は反射する柔軟な姿勢で工夫する知恵を身に着ける。学力や仕事の能力を伸ばすことは二の次の目標である。ここを履き違いして経済の成功や仕事の成功のみを第一優先して失敗すると失望から大変なことになる場合がある。

(柔軟な姿勢に正した解答8)

『TK大学の理科系を都内の高校に通うAさんと、地方の高校に通うBさんとが目指した。Aさんの家庭環境は経済的にも恵まれ有名塾にも通う事ができるのに対し、Bさんは経済的余裕もなく地方という事もあり有名塾もない。AさんとBさんは知り合いだが、Bさんは揃えられないことは認めて自分の行ける大学に向けて受験勉強に励んだ。』

(体系的確認8)

バランス(調和)を取らず同じ受験境遇を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)を取らず同じ受験境遇を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)を取らず同じ受験境遇を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)を取らず同じ受験境遇を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)を取らず同じ受験境遇を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)を取らず同じ受験境遇を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべてBだけの都合に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

Bの「わがまま」や「我慢」であり、Aの人生を認めないので自分の人生と揃わないと愚痴になって心が満たされない。実在界から肉体を持って産まれてくる時に人生計画は自分で立てている。愚痴を意識的にAに向けて境遇の差を揃えられないことに反論する。

(いじめ判定8)

BがAとのバランス(調和)を無視した加害者(妬みの態度を取った場合)。

Bが態度に出さない場合は我慢者であるが、心中はAを愚痴る加害者。

 

(例題9)

『インターネットで配信されている動画のコメント欄に、あるリスナーAさんは動画配信者Bさんと内容に対して「こんなの興味ない(誹謗中傷)」というアンチコメントを投稿した。』

(解説9)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「配信されている動画」で揃い、細かな部分では「共感する、共感しない」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「インターネット環境でのコメント記入内容」で全体範囲は動画配信Bさんと視聴リスナー全員である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、このテーマも揃えられない。簡単のためジャンルはエンターテインメントとし、一人一人の嗜好性を揃える事はできない。リスナー側の思い込み(恣意を働かせる)もあり、この場合もリスナー側が加害者となる。エゴサーチでも確認される。よって、リスナー側が柔軟な姿勢を取るならば以下の通りの解答となる。

(柔軟な姿勢に正した解答9-1):リスナー側

『インターネットで配信されている動画をあるリスナーAさんは視聴して興味無いと思ったので、その後はアクセスしなくなった。興味が無いのでコメント欄も書かなかった。』

SNSの誹謗中傷に関しては、「プロバイダ責任制限法」が改正され2022年10月1日から施行されている。SNS環境では始めから第三者機関に相談し、当事者間での直接の接触は避ける姿勢が不可欠と状況判断される。よって、リスナー側の思い込み(恣意を働かせる)による誹謗中傷を動画配信側が受けた場合の柔軟な姿勢は以下の通りの解答となる。

(柔軟な姿勢に正した解答9-2):動画配信側

『第三者機関の法的拘束力により指導を仰いだ。』

加害者は行動の源泉である感情が肯定的になれないと自覚できない。指導から行動を改め、理性の表面意識である習慣に働きかける。これにより感情を抑制してからでないと反省のかなめである「理性を磨く」に繋げられない。思い込み(恣意を働かせる)は決め付けた(型にはめ、囚われた)内容から抜け出せない。表現の違いは細かな部分が揃わないだけであり、表現したことが何を意味するのかが大きな部分の本質を表す。その本質が八つの決まりの本質を否定していないところを語ることができれば良い。異常「悪」は細かな部分の表現から自分勝手な自由を語る。意味が不調和でないことを正確に示す事で誤解(思い込み)として鏡面反射される。意味は誤魔かせない(本質は誤魔かせない)。鏡面反射に反論すれば支離滅裂をさらして異常「悪」を公言してしまう

(体系的確認9)

バランス(調和)でなく希望の配信内容を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)でなく希望の配信内容を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)でなく希望の配信内容を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)でなく希望の配信内容を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)でなく希望の配信内容を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)でなく希望の配信内容を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべてリスナーだけの都合に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

リスナーの「わがまま」であり、希望通りの配信内容でないと愚痴で心が満たされない。愚痴を意識的に動画配信側に向けて希望を通そうと反論(アンチコメント)する。

(いじめ判定9)

リスナーAが動画配信者Bとのバランス(調和)を無視した加害者。

 

(例題10)

『同系列のラーメン店AとBがあり、品質規準と加工条件を統一した味噌ラーメンがある。店Aにはaさん、店Bにはbさんが来店して、共にこの味噌ラーメンを注文した。aさんは「いいね評価」、bさんは「アンチ評価」をお店側に示したとする。店Bは評価の不公平を感じた。』

(解説10)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「品質基準と加工条件を統一した味噌ラーメンの味」で揃い、細かな部分では「美味しい、美味しくない」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「まったく同じ味噌ラーメンの味比べ」で全体範囲は店側A、Bと評価をしたa、bさんである。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、このテーマも揃えられない。「美味しい」「美味しくない」は個人の嗜好性の違いであり食文化の違いも揃えられない。同じ味噌ラーメンでも、お客さんによって評価は一様でない。大きな部分で「まったく同じ」とまでしないで、ただ味噌ラーメンの味で揃えて、細かな部分で賛否両論に分かれる食べ比べが一般的である。しかし私は食べ比べの本質を見え易くすることを目的としている。私は「八つの決まり」が示す平等の考え方で語るので、美食家のお薦めする料理や星の数が多い料理が美味しいとは語れない。「八つの決まり」では美食家のお薦め、星の数や他人の評価ではなく自分が「美味しい」と思った料理が美味となる。美食家のお薦めは美食家個人の嗜好、星の数は全体的嗜好の傾向となり、個々人に対して「美味しい」「美味しくない」を示す判断基準とはならない。美食家の意見、全体的傾向に揃わない人の食好みを「おかしい」とするのは「わがまま」であり、「いじめ」となる。SNSの誹謗中傷と同じである。「いじめ」は人間関係に限らない。すべてにおいて同じ内容を取る。「八つの決まり」を否定した内容である。人と自然(地球環境)との関係は代表的であろう。

(柔軟な姿勢に正した解答10)

『同系列のラーメン店AとBがあり、品質規準と加工条件の規格を統一した味噌ラーメンがある。店Aにはaさん、店Bにはb さんが来店して、共にこの味噌ラーメンを注文した。aさんは「いいね評価」、bさんは「アンチ評価」をお店側に示したとする。店Bは「美味しくない」のではなく、お客さんの好みの違いによるものだからと気にしなかった。』

(体系的確認10)

バランス(調和)を崩しても希望の評価を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)を崩しても希望の評価を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)を崩しても希望の評価を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)を崩しても希望の評価を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)を崩しても希望の評価を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)を崩しても希望の評価を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて店Bだけの都合に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

店Bの「わがまま」であり、希望通りの評価でないと愚痴で心が満たされない。

(いじめ判定10)

店BがAとのバランス(調和)を無視した加害者(妬みの態度を店Aに取った場合)。

店Bが態度に出さない場合は我慢者であるが、心中は店Aや来客bさんを愚痴る加害者。

 

(例題11)

『ある楽曲Gを歌手のAさん、Bさん、Cさんはカバーしており、この楽曲Gでカラオケの点数を競い合う番組があった。楽譜を正確に歌いこなして歌唱力は同じく同点であった。しかし、視聴者の反応は一様でなく、一部視聴者から制作宛てのお申し出があった。』

(解説11)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「各歌手が楽曲Gを歌いこなす得点数」で揃い、細かな部分では「各歌手が楽曲Gを歌いこなす得点数に対する視聴者反応」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「カラオケで歌唱力が同じと評価された歌手A,B,Cに対する視聴者の反応」で全体範囲は番組制作側、歌手A,B,C、視聴者側である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、このテーマも揃えられない。楽譜通りに歌っても歌手が異なれば聞こえ方は一様ではない。歌手として音程を外さずに楽譜通りに歌えるのは揃えられる条件とする。歌手に求められる条件は楽譜通りに歌うことに限らず揃えられない特性がある。声色だけでなく、雰囲気(オーラ:想念のエネルギー波動)や性格がある。現象界では相手の想念は正確には分からなくても、雰囲気はエネルギー波動であり誤魔かせない。誤魔かせない雰囲気には人柄がにじみ出て相手を魅了する。雰囲気や性格の違いは歌唱力としての技術とは異なる人格部分である。技術だけを追求してもファンは獲得できない。壁にぶつかり、生き方が無視できないのである。ファンの嗜好性と歌手が持つ魅力は揃っている。「八つの決まり」を規準に歌手を選択するならば、他人が選んでいることは選択理由にならない。他人とは異なる自分の嗜好性を理解して尊重し、その部分においては他人と揃える必要はないのである。但し、厳密には揃わなくても類似的には揃えられる。嗜好性の近い者どうしが同じ歌手を選ぶことはある。流行や他人に左右されることなく安定したファンになる。性格や嗜好性は外的環境要因から変わる場合がある。食の好みが変化するのと同じである。Ⅲ章で一般相対性理論から膨張宇宙解を述べており、宇宙の一様等方性は不変であるが、宇宙空間は膨張して時間発展する。大自然は変化を伴った安定性を対称性保存則によって教えている。大自然が持続可能な根拠である。人は変化の無い安定性ではなく、時間発展(変化)する安定性に魅了されることを表している。

(柔軟な姿勢に正した解答11)

『カラオケの点数結果が同じことを不満に思う者もいたが、細かな部分に現れる揃えられない歌手の持つ多様性に対して、自分の嗜好通りには揃えられないことを認めて制作宛てのお申し出は取り下げた。』

(体系的確認11)

バランス(調和)でなく自分の嗜好を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)でなく自分の嗜好を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)でなく自分の嗜好を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)でなく自分の嗜好を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)でなく自分の嗜好を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)でなく自分の嗜好を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて自分だけの都合に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

お申し出の「わがまま」であり、嗜好通りでないと愚痴で心が満たされない。

(いじめ判定11)

お申し出をした視聴者が番組制作側とのバランス(調和)を無視した加害者。

 

(例題12)

『Cさんが立ち合いのもと、SゲームでAさんとBさんが獲得点数で競った。Aは初心者、Bは手慣れたプレイヤーである。Cさんは勝負にならないと判断し(比較の役割は揃えられるか否かを判断することなので実力差が開き過ぎては比較をとる意味がなく、平等関係の取り方2を採用した)、ステータスMAXのチート使用を対戦相手のBにハンデ提案した(但し、無敵状態は除いた)。極端な実力差があっては比べようが無いことを指摘した。しかし、Bさんは認めない。』

(解説12)

抽象的な大きな部分で条件が揃えられる判断をし、次いで具体的な細かな部分の条件でも揃えられるか否かを判断することが比較の役割である。細かな部分で互いの揃えられない差異が限度を超えて開きすぎていると、大きな部分の条件が揃えられなくなる。これが本題のテーマになる。全体範囲はA、B、Cさんである。本題とは別だが細かな部分の条件として生活状況の差異が開きすぎているとき、大きな部分の条件として非貧困者と貧困者とに揃えられなくなる。八つの決まりが示す根源的な本質である大きな部分では、限界を超える者と超えない者とで揃えられなくなる。なかほどを逸脱する者と逸脱しない者とで揃えられなくなる。限界を超えてなかほどを逸脱させる否定行為なのである。細かな部分の表現が異常ならば「なかほど」が意味するバランス(調和)を否定していることを誤魔かせない。SNS誹謗中傷の鏡面反射で述べたように、細かな表現が正常ならばアンバランス(不調和)な意味は含まない。細かな表現だけに囚われてはならない。表現したことの意味(本質)を正しく伝えることが大切である。比較の限界(比較対照外)になるほどの開きの関係があってはならない。初心者と玄人を競わせるならば、比較の限界を超えないようにハンデを設けることが平等関係の取り方である。八つの決まり(有限を否定しない決まり)に準じた行為である。

(柔軟な姿勢に正した解答12)

『Bさんは実力差が開きすぎて比べようが無いことを認めてハンデを受け入れた。別のRゲームならばAさんは初心者ではないが、逆に自分(Bさん)はプレイしたことがない。さらに、異なるゲームSとRで競うことは無意味であると判断した。』

(体系的確認12)

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて自分だけの都合に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

Bさんの「わがまま」であり、自分に有利な不公平が通らないと愚痴で心が満たされない。

(いじめ判定12)

第三者のCさんのハンデ提案を受け入れなかったBさんがAさんとのバランス(調和)を無視した加害者。

 

(例題13)

『1989年(平成元年)から施行された消費税は消費価格に対して一律の税率を上乗せする。この税制は個人の可処分所得(手取り収入)によって経済負担が変化する。可処分所得が低いほど経済負担が大きくなる逆進性となっている。』

(解説13)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「消費」で揃い、細かな部分では「消費に対する可処分所得」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「揃えられない可処分所得に一律の税率をかける逆進性の消費税」で全体範囲は迂回献金で税制を都合よく操る者達(経済力で自己都合を通す納税者)、立法する者達、逆進性の悪影響を受ける納税者である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。性別のように揃えられない条件もあるが、このテーマも揃えられない。税の役割には所得再分配機能(経済力のある人により大きな負担を求める累進性で貧富格差を是正する)がある。可処分所得が一律に揃うことが平等関係の取り方ではないが、限界を超えて生活が成り立たない貧困者が増えているならば是正しなければバランス(調和)の否定になる。納税格差とは消費税だけでなく、所得税、相続税・贈与税、法人税など税制全体で富裕層を優遇して存在する。富裕層を納税で優遇しなければ消費税を廃止してインボイス制度も不要になる。

(柔軟な姿勢に正した解答13)

『1989年(平成元年)から施行された消費税は消費価格に対して一律の税率を上乗せする。この税制は個人の可処分所得(手取り収入)によって経済負担が変化する。可処分所得が低いほど経済負担が大きくなる逆進性となっている。貧困者が増えて社会全体のバランス(調和)が崩れているので消費税をはじめとする富裕層を優遇する税制を廃止した。バランス(調和)を取るために税制の空洞化を見直して税収を安定確保した。政治は全体のバランス(調和)を目的に政策を立てる。安定した税収が政治の力となった。』

(体系的確認13)

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて富裕層がお金に「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

富裕層の「わがまま」であり、社会全体のバランス(調和)を考えないので自分に有利な税制でないと愚痴で心が満たされない。

お金で操られる政治家の責任は否定できない。正常の物差しのない今の世では全体のバランス(調和)を崩す事になっても政治家は迂回献金をよこす納税者の顔色を伺う。罰則対象でも有権者に金品を寄付して選挙投票を誘導する使途不明金も絶えない。金品で投票する国民にも責任がある。宇宙・自然が持続可能である根拠をもとに正常と異常の分別を持つことで、全体のバランス(調和)が取れるのである。これこそ政治家が政策内容を判断する根拠である。富裕層の顔色が判断根拠ではない。Ⅲ章の八つの決まり4)で述べた「政治と金」を参照して欲しい。金の力と権力は大きな部分では社会を動かす力として揃うが、細かな部分では動かせる力の大きさの差異として揃わない。つまり権力は金で買収可能なので「金の力>権力」となっている。よって、権力を経済力で操る者達である資本家(投資家富裕層)と政治家では罪の大きさに大差がある。資本家の罪>政治家の罪となる。力と責任は正比例する。現実、今の世の中を動かしているのは金の力なのである。どうすれば、お金を持たない者が世をリードできるだろうか。お金を大量に持つという事は、美味しいことばかりでなく大きな責任を背負うことになる。

(いじめ判定13)

全体のバランス(調和)を無視して低所得者の生活を放置する行為は、平等関係の取り方を否定した不平等行為であり「いじめ」である。他の税制の空洞化を誤魔かして、消費税を施行する政治家と政治家を迂回献金で操る者達が加害者となる。消費税で生活できなくなる者達が被害者となる。

 

(例題14)

『富裕層の所得の大半を占める株式売却益・株式配当金・預金利息等の金融所得にかかる税金も所得税であるが、所得税の超過累進税率となる総合課税から分離された低率課税となっている。税務当局の把握困難を口実に他の所得分類と揃えて超過累進税率を採用する総合課税にせず、所得納税のバランス(調和)を取る改善が進められていない。』

(解説14)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「所得」で揃い、細かな部分では「所得分類」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「金融所得が超過累進税率となる総合課税から分離されていること」で全体範囲は迂回献金で税制を都合よく操る者達(経済力で自己都合を通す納税者)、立法する者達、金融所得以外の所得分類で不公平を受ける納税者である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。この内容では金融所得を大きな部分で所得として揃えられる。揃えられることを誤魔かして全体のバランス(調和)を取らない。これは反地球からやってきた救い人(2)でも触れている。税の空洞化は税全体に渡り、総合した負の反作用が国家財政の悪化として現れる。超過累進税率にならない株式等売却による収入は年間所得1億円前後から急激に増加する傾向にある。そのため、1億円を境にして所得税負担率は低下している。

(柔軟な姿勢に正した解答14)

『富裕層の所得の大半を占める株式売却益・株式配当金・預金利息等の金融所得にかかる税金も所得税であるが、所得税の超過累進税率となる総合課税から分離された低率課税となっている。税務当局の把握困難を口実とせず「工夫」をして、他の所得分類と揃えて超過累進税率を採用する総合課税にして所得納税のバランス(調和)を取った。』

(体系的確認14)

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて富裕層がお金に「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

富裕層の「わがまま」であり、社会全体のバランス(調和)を考えないので自分に有利な税制でないと愚痴で心が満たされない。

(いじめ判定14)

全体のバランス(調和)を無視して揃えられることを誤魔かす行為は、平等関係の取り方を否定した不平等行為であり「いじめ」である。加害者は誤魔かした側となり、本例題では政治家と租税特別措置で有利な立場にいる富裕層となる。被害者は他の超過累進税率対象の所得分類で納税している低所得・中間所得層の人々となる。

 

(例題15)

『1989年(平成元年)からの消費税3%の導入とバブル経済悪化による国民の負担を軽減する目的で行われた税制改正に、所得税率構造の圧縮と所得控除の拡充があった。ところが超過累進税率から減税率(%)と所得控除額は高所得者ほど高かった。』

(解説15)

まずは比較を取ってみる。大きな部分では「所得」で揃い、細かな部分では「所得控除額、所得減税率(%)」で揃わない。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。テーマは「生活困窮の低所得層よりも富裕層の控除と減税を優遇した税制改正」で全体範囲は迂回献金で税制を都合よく操る者達(経済力で自己都合を通す納税者)、立法する者達、その他納税者全員である。テーマと全体範囲から八つの決まりに従って有限を否定しない(限界・限度を超えない「なかほど」)判断をする。「なかほど」はバランス(調和)であり、この内容で全体のバランス(調和)を取るためには揃えられるか否かを誤魔かしてならない。減税率(%)と所得控除額が超過累進税率に従っている事から一見問題はないように思われるが、本当に問題はないのか洗い出すために例題文には書かれていない内容まで範囲を広げて考えてみる。生活が成り立たない貧困者を無くすための税制改正でなければ、全体のバランス(調和)を取らない不平等のままである。貧困者は生活が成り立たない者、非貧困者は生活が成り立つ者で条件が揃えられないことが比較判断される。揃うか否か分かり比較の役割は終わる。これ以上は比べようが無いにも関わらず、貧困者と非貧困者とで誤魔かしの比較をしては不平等になる。比較の限界を超えた不平等になる。富裕層に偏り過ぎた富のゆとりを全体に流してバランス(調和)を取らなければならない。貧困者を生まないように所得の比較で全体のバランス(調和)を取る時、納税は所得に正比例するが、控除と減税率は所得に反比例する。ここで注意点は減税率を所得に反比例させても、実質減税額が高所得者の方が高ければバランス(調和)は取れない。実質減税額が低所得者であるほど高くなるように減税率と所得の反比例をとる。減税による手取り額によってバランス(調和)が取れるのである高所得であるほど納税が増えても、控除と減税率が増えては富の再分配による全体のバランス(調和)が損なわれる。最優先して満たすことは宇宙全体を時間発展的に持続可能としている自然法則の本質である。それは有限を否定しない事(限界・限度を超えない「なかほど」)、つまり全体のバランス(調和)をとることである。常に累進性が最優先の全体のバランス(調和)をとれるわけではない。ここに示したように「反比例」の作用も必要となる。また富の再分配が行われても皆が等しく富を持つことにはならない。貧困者を生まないことを前提とした経済格差は正常として存在する。50:50のみが平等の取り方ではない。

(柔軟な姿勢に正した解答15)

『1989年(平成元年)からの消費税3%の導入とバブル経済悪化による国民の負担を軽減する目的で行われた税制改正に、所得税率構造と所得控除の見直しがあった。高所得者ほど減税率(%)と所得控除額が優遇されては、所得再分配を全体のバランス(調和)を取るために機能させられない。逆に減税率(%)と所得控除額は所得が低い者ほど優遇された。』

(体系的確認15)

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分に有利な不公平を望む

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて富裕層がお金に「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

富裕層の「わがまま」であり、社会全体のバランス(調和)を考えないので自分に有利な税制でないと愚痴で心が満たされない。

(いじめ判定15)

全体のバランス(調和)を無視した行為は平等関係の取り方を否定した不平等行為であり「いじめ」である。加害者は全体のバランス(調和)を無視した側となる。本例題でも政治家と税制改正で優遇された富裕層となる。被害者は富裕層優遇の税制改正で貧困が改善しない低所得層の人々となる。

 

(例題16)

『死んだら終りだと思い、社会全体や身近な人とのバランスも考えないで、権利を理由に自分の思いだけを通して人生を終わった。』

(解説16)

八つの決まりを誤魔かす内容でなければ良いので、八つの決まりの内容と比較確認する。テーマは「死んだら終わり、人生は一度きりと思って自分勝手を通す人生」で、全体範囲は宇宙全体で肉体を持つ者全員である。

・死んでも終わらず輪廻転生によって光子体(反物質体)の対称性保存則は成立

 する。天上の実在界「天上界」からでないと肉体(物質体)を持って産まれる

 ことはできない。苦しみの実在界「地獄」からは産まれることはできない。地

 獄に落ちている心の兄弟が天上界に戻らないと他の兄弟も産まれられない。こ

 れが正常の流れを持続させる根拠。

・権利を理由にバランスを取らずに思いを通してはならない。

故に、例題16の生き方を正常と考えるならば、八つの決まりの誤魔かしとなる。

(柔軟な姿勢に正した解答16)

『死んだら終りと思わず、社会全体や身近な人とのバランスを考えて、権利を理由とせず、自分の思いを通さず、バランスのために最善を尽くして、全力でやり切った満足感を胸に人生を終えた。』

(体系的確認16)

バランス(調和)よりも自分に有利な権利を使う

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分に有利な権利を使う

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分に有利な権利を使う

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分に有利な権利を使う

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分に有利な権利を使う

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分に有利な権利を使う

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて自分に有利な権利に偏る「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

「わがまま」であり、自分に有利な権利が通らないと愚痴で心が満たされない。

(いじめ判定16)

権利を理由にバランス(調和)を無視した者が加害者。

 

(例題17)

『過去の偉大な指導者I様、M様、B様は互いに生きた時代背景や社会環境を考慮して、根源的本質から人の道を各自の表現で説かれた。各自の表現方法は細かな部分で多様性により揃えられないが根源的本質では揃えられて同じ教えであった。揃えられる根源的本質に着眼して取れる比較をせず、逆に細かな部分の表現が揃えられないところに目が行き、異なる教えとして異端視する者達もいる。そして本物の根拠を見落とした。さらに指導者没後の人々が打算的な自分勝手から教えを歪めて伝えた。誤解が助長されて本物の分別ができずにいる。さらに無数の新興的教えが起こり、本物の分別が複雑化している。』

(解説17)

八つの決まりを誤魔かす内容でなければ良いので、八つの決まりの内容と比較確認する。テーマは「本物の教え」で、全体範囲は物質世界(現象界)、反物質世界(実在界)全領域で創造主を除く全員である。創造主は人間を卒業している上段の意識なので除かれる。

本物を立証する根拠は2つある。

・八つの決まりは根源的本質と矛盾しない表現をしており、視点を変えた表現に

 置き換えても根源的本質は揃えられて比較照合可能である。表現が八つの決ま

 りと揃えられないから異端視する姿勢では、揃えられないことを認めない比較

 の役割の否定である。細かな部分の表現はどのような場合にも必ず根源的本質

 と矛盾しない。

・本物の教えを説く場合には文証・理証・現証のバランス(調和)をとって示

 す。現証とは根源的本質に矛盾しない自立した社会の構築促進と、そのような

 社会に生きる人々を超自然現証(霊現証)により実際に援助する実践である。

 現代社会では不可能なことを可能にする力をバランス(調和)のために使うこ

 とができる。現代社会の力を超える。

以上の2つである。

現行資本主義体制とは資本家達(投資家・富裕層)が「お金」の力で自分勝手に支配する資本家独裁国家である。その異常支配が自滅せずに機能している段階ではその支配と対立するような内容の意見交換はせずに現証を発動させていく。異常の自分勝手が原因で、正常と異常は一体化できないためである八つの決まりの理解を深めるとは、その表現のみに囚われることなく視点を変えた表現に置き換えても根源的本質と矛盾しない判断ができるようになること。根源的本質に矛盾しないかどうかを比較で確かめる。異端視して敵視するのは揃えられない細かな表現のみに目を向けて、揃えられない場合には関係ないにも関わらず、認め合い譲り合う心の未熟さ(わがまま)で出しゃばってしまう。揃えられるか否かを自己都合で誤魔かす誹謗中傷になる。着眼のベクトルが真逆である。大きな部分の揃えられる本質にこそ目を向けて比較する。大きな部分の根源的本質とは整合性を取って揃えられていても、細かな部分の表現で揃えられないために異端視することは八つの決まりの誤魔かしとなる。根源的本質とは柔軟な姿勢により偏らない「なかほど=バランス(調和)」を表すことから、本物の教えを説く場合には文証・理証・現証のバランス(調和)を示す。2つの根拠を示せない場合には八つの決まりの誤魔かしとなる。注意するところは、現証とは八つの決まりを日常生活で実践することにある。超自然現象も八つの決まりの実践である。苦しみの実在界の者達が起こす超自然現象は八つの決まりの誤魔かしである。霊能力と超能力は同じで肉体を持つ霊能力者や超能力者による力ではない。彼らに協力している実在界の者達による。彼らの生き方が根源的本質に矛盾せずに八つの決まりに準じていれば本物の霊能力者なのである。本物の霊能力者の見極め方でもある。能力の大小ではなく生き方から判断する。                                                                                                                                    

(柔軟な姿勢に正した解答17)

『過去の偉大な指導者I様、M様、B様は互いに生きた時代背景や社会環境を考慮して、根源的本質から人の道を各自の表現で説かれた。各自の表現方法は細かな部分で多様性により揃えられないが根源的本質では揃えられて同じ教えであった。指導者亡き後も人々は比較から大きな部分で揃えられる根源的本質と細かな部分の揃えられない多様性の表現を明らかに理解していた。多様性の根源的本質は揃えられ、揃えられない表現は認め合って譲り合い一つの同じ教えであった。揃えられるか否か「比較の役割」を誤魔かさなかった。揃えられない表現方法は互いに関係なく、揃えられる根源的本質では互いに関係あることを理解していた。関係有ること無いことの分別を理解していた。揃えられない表現方法の教えに対しては無関係から出しゃばらず、誹謗中傷の「いじめ」として異端視することはなかった。このようにして指導者亡き後の人々は教えを都合良く伝えることはなく、誤解なく表現豊かに多様性を持って本物の教えが伝わった。根源的本質と矛盾する教えは偽物であることが分別され、偽物の新興的教えは疑われて自滅した。』

(体系的確認17)

バランス(調和)よりも自分勝手な多様性を優先する

=「思い通りでないと満足できない」

=「足ることを知らない」

バランス(調和)よりも自分勝手な多様性を優先する

=「思い通りでないとひがみ妬む」

バランス(調和)よりも自分勝手な多様性を優先する

=「バランス(調和)を壊して思いを通す」

バランス(調和)よりも自分勝手な多様性を優先する

=「全体の立場に等身大で立てない」

バランス(調和)よりも自分勝手な多様性を優先する

=「わがままで揃えさせようとする」

バランス(調和)よりも自分勝手な多様性を優先する

=「わがままで比較の結果を否定する」

これらの表現はそれぞれ異なるが、すべて自分勝手な自由による多様性を優先する「型にはめる、決め付ける、囚われる」=「執着する」状態を表している。

「わがまま」であり、自分勝手な自由による多様性が思い通りにならないと愚痴で心が満たされない。説明上、自分勝手な自由による多様性と表現してはいるが自分勝手である時点で多様性ではないので注意する必要がある。自分勝手な自由の多様性は存在しないという事である。

(いじめ判定17)

みんなで揃えられて関係する本質を意識せず、関係のない揃えられない多様性を意識して、自分勝手に揃えられるか否かを誤魔かす者達が加害者である。異なる教えとして異端視し、打算的な自分勝手から教えを歪めて伝えることになった。意識するのは揃えられて関係がある大きな部分であり、揃えられない細かな部分の多様性は互いに関係なく意識しない。干渉せず、出しゃばらず、ひがまず妬まない。揃えられるか否かを判別して比較の役割は終わりである。比較の結果を自己都合で誤魔かす自分勝手にこそ認め合って譲り合う心の未熟さが現れている。問題はジャンル問わず日常生活に現れる。故に日常生活に合わせて根源的本質を表現した「八つの決まり(有限を否定しない決まり)」を代表的に紹介した。

 

次回は、Ⅵ章:SDGsの取り組みを考察、についてふれてみたいと思います。

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根源的本質をそれぞれの多様性の表現で説いています。揃えられない細かな部分の多様的表現に対して、根源的本質との整合性から本物の教えを判断できるようになることが、八つの決まりを深く理解することにつながります。日常に沿った表現の八つの決まりはわかりやすく、根源的本質の一表現となっています。

 

正常の定義も根源的本質と整合性を取る一表現です。日常生活の立場、自然科学の立場、I様の教え、M様の教え、B様の教えで表現しても正常を満たします。

 

宇宙、自然の構造と同じです。生物の体は、たった一つの受精卵から始まります。原点に根源的本質があります。いかに多種多様な臓器に分化して多様性を持っても受精卵が持つ情報を揃えてすべての細胞が持っています。宇宙も特異点から始まり多種多様な星々と銀河を構成していきます(特異点では時空は不定義なので、どのような始まり方をしたかは一般相対論では不明です。故に特異点ではなく単に「点」から始まったとは語れません)。心の構造も感情・本能・理性・智性に分化して現れますが、それは心の表面部分に表れている意識においてです。日常生活における意識であり表面意識とも呼ばれます。しかし、これらは心の奥底にある潜在的な意識から分化して表れているのであり、そこでは感情・本能・理性・智性は一つであってバランス(調和)が取れています。日常生活でも潜在意識と揃えてバランス(調和)を取れるようになるために体験を通して学びます。心の本質を学ぶとは、バランス(調和)の取れた潜在意識と揃えられるようになることです。表面意識でそれができるようになるためには、揃えられない細かな部分の多様性に対して、自分勝手を克服して認め合って譲り合えるようになるしかありません。自然をよく観察して根源的本質を受け入れることです。

 

根源的本質では皆揃えられる亊から、自分という存在を自覚することにより、相手も、宇宙全体も理解できます。

 

2025年8月18日 

橘 菊