心とは、どういうものなのか

 

私達の日常生活は、心で思い行動するという毎日です。
心は、どこにあるのでしょうか。心は、どのようになっているのでしょう。
本来、心の姿というものは丸く立体的で、心の内側の機能は想念を中心に左右上下に本能、感情、知性、理性そして意志があります。一般的に心で思うと云いますが想念で思っているのです。

人間の心の姿、色、働き
① 生命を自由につくりだすことの出来るエネルギーの源が支配者である神(大自然の意識)です。
② 私達は神(大自然の意識)から生命エネルギー(神の精)を与えられて生きています。生命エネルギー(神の精)は生命を生かしている物です。
③ 心とは、生命エネルギー(神の精)を神(大自然の意識)から受ける受け場であり入れ物です。心の器の大小によって人の役目も決まっており心は神(大自然の意識)につながっている基点で絆です。
④ 意識とは、例えば自分というものが無かったら眠っている時に夢を見ないで何もわからない状態に似ているのでしょうが、朝、目覚めた時、まわりの状況を知ることが出来るのは、生命エネルギー(神の精)が心の器へ流れてくることによって自分を自覚するのが意識です。目覚めている時の想念の働きで、いろいろと判断し自我という意識活動が行われる。意識は心を包んでいます。また想念が浄化されると意識の浄化につながります。
⑤ 想念とは泣きたくなる時、胸のあたりから沸き起こってくる感性がありますが、そこが想念(一般的に心と言う)です。想念とは、あの世の理性という意識活動と、この世での日常生活で五官を働かせて目で見て、耳で聞いて、香りや味、体で感じたりする事を本能、感情、知性という各機能を働かせ混合して考えるところです。「八つの決まり」を手本に日常生活で実践し、実践した事をふりかえり善かった事は、より伸ばし、反省した事は再び実践していく事により想念と各機能が浄化されていきますが、想念と各機能が心の根元まで達すると一つに寄せ集まった状態となり神の子の自分に帰り、宇宙と人間の仕組みを理解することが出来ます。頭で理解する事と想念(一般的に心と言う)が理解する事は別ものです。頭で理解して「八つの決まり」を手本に実践していく事により想念が理解するようになっているのです。座禅のみで人は絶対に悟ることは出来ません。自分では想念まで理解したと思っても何か問題が起こり、その時、自分はどのような考えをして行動をとるのかで想念まで理解していたのかが、わかるのです。本当の意味の修行とは生活行為です。想念は、生命エネルギー(神の精)の蓄電器の役目と充電された生命エネルギー(神の精)を放出しながら生活活動を行っています。受信、発信も想念の働きです。自ら考え感じたりする働きの元になっていて発電装置の働きもします。
各機能に、あの世の理性が中和されている時は、よく言われる心の姿が丸いということになり色は無色です。怒ったりすると各機能は調和せず単独で働き感情が片寄り想念の姿は、ゆがんでしまい赤色の光になります。各機能の働きによって不調和な考えの色は赤、黒、うすい黒等の色。意識の水準によって調和された色は、やわらかい紫、若葉、黄金などの明るい色となります。例えば神様だと言って出て来ても体のまわりが赤い光であれば神様ではなく地獄霊です。姿にだまされることなく色で判断をしましょう。色は、ごまかせないという事です。

「八つの決まり」を手本に反省する時は、想念を静め自分の想念は丸いとイメージしてから反省に入る事が重要です。なぜかと言うとイメージする時とイメージしない時では念の働きが違ってくるからです。どのように違ってくるかというと想念が丸いとイメージすると各機能が調和され姿は丸くなります。調和されているという事は天国へ自分の波動がつながっています。逆にイライラすると姿はゆがんでしまい地獄へ自分の波動がつながります。この世は天国と地獄の両方に接する場所です。
目で見て、その人の態度が良くても悪をイメージし続けると、時の経過と共に必ず、いろいろと悪い状態となって現れてきます。悪を思うなという事は、むずかしいですが悪を思ってもこれではいけないと考えを切り替える事が重要です。悪を思い続けると危険です。ねたみ、そしり、思うとおりにならないで苦しむのは悪です。想念は物をつくる能力をもっており想念は行為しているところです。想念の各機能を働かせて「よし、このようにやろう」と思い意志につながるのです。一般的に心で思うと言いますが想念で思っているのです。

想念は今まで自分が体験してきた人生をすべて記録しています。過去世の人生も。過去、現在、未来は今という一点から前後した言葉ですが地球での時間の単位は人間が生活をしていくのに必要な為に定められたもので時間と空間は、はっきりと決まっていないのです。「八つの決まり」を手本に日常生活を反省し、反省した事を実践していけば意識(想念が浄化されると意識の浄化につながる)は浄化され過去の記憶がよみがえってきますが意識が浄化されたからといっても、その人の環境においては必ず過去の記憶がよみがえるという事ではありません、心の器の大小に関係なく記憶がよみがえったりします。要は天国の霊人が、その人の状況を見て過去をよみがえさせたりしているという事です。

 

⑥ 想念が意志に働きかけ脳に伝わり肉体が行動します。
脳が中心ではなく想念が中心をなして、まわっているという事です。「神が行動以前の、その人の心を見て裁く」という事が、お分かりになったと思います。発明や発見も、ひらめきとなって湧いてくるところが想念です。想念は常に形を描き続け、この世での物をつくる始まりです。病気が原因で死んだ人が、あの世でも病気で苦しんでいますが霊魂は病気には、ならないという事を知らないから病気になっているのです。想念は物をつくります。


⑦ 霊魂とは意識と、その意識の中にある想念があわせて一つになっている状態を言います。

 

⑧ 脳は想念(一般的に心と言う)の命令下にあります。私達の想念が悲しんだり、ぐちったり、怒ったりすると脳から各臓器に伝わり細胞は疲れ病気の元が出来ます。ストレスや悩みが多く続いている人が胃を病むという事は、よくある事です。気にしてくよくよする事なく自分の生き方が善の生き方をしているならば結果はどうあれ自信をもって自分をほめて生活をしましょう。

 

⑨ 私達は何かを考える時も生命エネルギー(神の精)を必要とします。悩んだり考える事が多いと疲れてきます。これは生命エネルギー(神の精)を使って生命エネルギー(神の精)が消失するからです。生命エネルギー(神の精)は多く使いたいから心の受け場に生命エネルギー(神の精)が多く流れてくるかというと、そうではなく神(大自然の意識)から一定の量が供給されているので一定以上の量を使うと体も疲労して生命エネルギー(神の精)を消費している事になります。体や気力の限界を超えてしまうと病気になる事は常識となっています。ここにも規準は「なかほど」にと言えます。

 

⑩ 病気を治す為にいろいろと研究し新しい薬を作っていますが人間がこの世に生まれて来る目的は何かという物事の本質をさぐって考えてみますと、いかに染色体細胞の研究をして病気を治す新薬が出来ても脳を動かしているところの想念や意識を正すところから出発する研究でなくては次から次と新薬では、ききめがない病気が現れ「いたちごっこ」となってしまいます。それは人間として価値や目的を考えてみた時、物質経済中心の考えではなく人間の心からの考え方が中心でなければ平和は、おとずれないのと同じ事です。言いかえれば神(大自然の意識)の目的に私達が気付き実践するまで「いたちごっこ」は続くということです。

 

⑪ 波動には肉体の波動と意識(魂)の波動があります。肉体の神経に生命エネルギー(神の精)が流れなくなった時、肉体の死となり肉体の波動は止まります。肉体が死ぬと何もわからない状況になるのかというと、そうではなく肉体が死んでも心という入れ物に生命エネルギー(神の精)が途絶えることなく与えられ続けていますので意識の波動は止まることなく活動しています。その為に自分を自覚しています。自分を自覚するということは今、天国にいるのか地獄にいるのかが、わかるという事です。この世で善の生き方をした人は天国へ悪の生き方をした人は地獄へ落ちていきます。不幸が続くと「神も仏もあるものか」という言葉を耳にしますが正しい秩序や道徳を生かし自然と人間が調和する社会をつくるという神(大自然の意識)の目的から反した考えや行動が不幸を招いているのです。人間のつくった法に守られても天国へ帰れるように祈っても、お経をあげたり戒名をつけてもらっても無駄なのです。肉体が死んだ時に「やはり、そうだったのか」と、わかる人達が大勢います。

 

心は鏡であり、反省し実践していく事によって磨かれていきます。天照大神として祀られたその人は、鈴をゆっくり振りながら一日をふりかえり自分の心の動きを見て反省することは反省し心の波動を神(仏)と調和させました。

 

人間は自分の意思だけで、この世に生まれてこれないし死も自分で決めてはならないのです。なぜならば肉体は自分の物ではなく神(大自然の意識)から与えられている物だから。死の前には人それぞれ事情は違いますが、どのような心の有り様で死を迎えるのか、生きてきた表向きの人生ではなく善の心で生きた充足感でふるさと天国へ帰れますように。

 

あの世は永遠の心の世界、この世は心と物があわせもつ世界です。あの世も、この世も心を中心に回転しており移り変わる物が中心ではないという事です。

次回は「人間は皆、平等である」の内容について、ふれてみたいと思います


2016年7月
橘    鞠